スミレとぼくと。

+愛犬・愛猫のトレーニングについて+

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ジミーは、弟分のブルテリアのバジーの身体をキャンバスにゲージツをするのが大好きである。たいていは、水性のペンでゲージツするので、風呂好きのバジーにとっても飼主のジミーの両親にとっても、まあ安心なのだが、ときに油性でやってしまうこともあったようだ。こりゃマズイだろうと思ったが、バズィは至福の時を過ごしており、ジミーのゲージツを止めさせ、その結果、彼を泣かしたりすると、ものすごく悲しい表情をするそうだ。場合によっては、一人と一匹の至福のときを邪魔したと牙をむくそうだ。これは数年前のもので、いまジミーは、ちゃんと紙の上でゲージツし、バジーは、そのそばでまどろんでいるのが日常の光景だそうだ。バジーが顔にゲージツされているときは、さぞかし見ものだったろうと思う。

いささか私事で恐縮だが、テニスをしているとき以外では、常に穏やかだったいまは亡き父が、実家の近くでちょいとした騒ぎを起こしたというか、近隣のママさんたしから大顰蹙を買ったことがあった。それは、父が「小中学校は犬猫学校も同然」と言ったことで、その言に対して激昂したママさん連から前言撤回を求められたのだが、頑としてその要求をはねつけたことにあった。それは親のいうことをまるで聞かず、大人を小馬鹿にしている子供の親たちに向けられたものだった。言わんとするところは、社会生活を送る上での基本を身につけることが重要であるということだ。でも、怒るママさん連を前に、父は主旨を解さない彼女たちをせせら笑ったことで、それが火に油どころかダイナマイトを投げ入れるがごとくの騒ぎになったのだった。

その当時、実家の近所をマーケットに家庭教師で稼ぎまくっていたボクとしては、それはとても迷惑なことだった。ボクは英語専門の家庭教師で、基本的には格安、しかし通知表なりテストの点に改善が反映されれば成功報酬をいただくという方式でやっていて、ハシにも棒にもかからない中学生の英語力を文字通りメキメキと向上させ、売り手市場の立場にあった。ところが、父親の発言により、それで怒ったママさん連の中で、子供の成績より、自分たちの腹立たしさのほうにプライオリティを置く方々からクビを宣告されたのである。

ケビンとビリー.jpg

チベタン・マスチフとレオンベルガーというジャイアントのジミーの上に乗って大喜びしているケビン君である。無論、ジミーはケビンのことを親分とは思っていない。けれど、飼主である親分の大切な子息であることは理解しているし、わが子のように大事に思っている。その証拠に、顔を隠して怪しげなそぶりで近寄ろうとしたら、それはものすごい声で唸られた。顔をみせたら、なんだアンタかという顔をされて黙殺された。

ボクは、英語を教えることにおいては、ちょいとした自信があって、それは実際にも成績の向上という実績に反映されて、やり甲斐があった。教わっている側も、当初は態度劣悪なものの、興味をひく題材で引き込まれ、気づけばまわりを見返すことができていることに気づき、喜んでいた。家庭教師をしていたのは、渡米のための旅費かせぎではあったものの、子供達が生き生きとして英語力を身につけていくのを見るのは、気持ちのイイことだった。学校の先生では、てんでダメだったのが、これほどまでになったというくらいの子が何人もいたくらいだ。そんな子たちとの関係を、まったくスジちがいにことで横やりを入れられるどころか、それを理由にヒマを言い渡されるのは理不尽だと思った。

それは、教わっているデキの悪い彼女らの実子である中学生たちにとっても同様だった。バカな親のまちがった了見のおかげで、楽しみにしている英語を学ぶ機会を取り上げられたのだ。楽しみにしていたのは別な意味合いもあった。男子にはPlayboy誌、女子にはPlaygirl誌を、いずれも無修正の本国版も教材に使っていたからだ。そんな彼らは親にこれまで以上に反発し、それは成績という現実的な数字となって返ってきた。さらに、親に呆れた彼らは、素行の不良化の面でもいっそうの拍車がかかった。彼らは、親を親とも思わず、公然と反発したり、親の目の届かないところで、それぞれが思い思いの悪さをした。でもって、それらのことは内申書に響くことにもなった。でもボクは、彼らを見捨てず、ママさん連ではなく、子供達を通じて話のわかるパパさん連と密約を交わし、彼らに英語を教え続けた。

悲しいかなサイフは奥方に握られているがゆえ、約束の報酬を支払えないパパさんもいたのだが、そこいらは、子供達が、まあ、どうにかしてくれた。もう時効だもんね。彼らもいまや立派な大人だ。で、それが叶わなかった子たちも数人ほどいたのだが、彼らは、もう親のコントロール不能な状態となっていた。もともと、そのような状況にあったのが、よりいっそう悪化したのだ。親はナメられ、こんなアホかと足元を見られ、自暴自棄になった。それでも、ボクは、ギャラはもらっているというフリをしつつ、彼らに英語を教えた。とはいえ、彼らの心中の落胆ぶりや想像以上で、英語以外はまるでヤル気をなくした子もいたのだった。余談だが、その中の一人は、いまやなんと市議会議員だ。

チャイナとビルとペブルズ.jpg

チャイナとバブルズ、そしてベアである。どれが女の子の名前かと問われれば、チャイナである。なぜかというと、両親がヒッピーの出で、二人が中国に滞在中にデキた子だからだそうだ。バブルズは、アメリカン・ストラットフォードシャー・テリアとも呼ばれるピットブルで、ベアはチャイナの弟の名前だ。獰猛と言われるピットブルの、この幸福そうな表情を見ていただきたい。ご両親は、中身はいまでも立派なヒッピーで、3人の親御さんにしてバブルズの飼主だ。ちなみにチャイナには兄もいて、スパイダーという。さすがヒッピーである。

ここで察しのイイ方々なら、わが父に言ったことは、あながちまちがいではないなと思われるはずだ。そう、ボクも思うのだが、義務教育としての中学校卒業までの教育期間とは、社会における基本中の基本である、常識を身につけることでしかない。それは、犬の群れにおけるそれとまったく同じであり、それを身につけられないことは、不幸以外のなにものでもないのだ。平たく言えば、他者との折り合いを付けられる自己を作り上げることだ。

これは換言すれば、犬にも当てはまる。犬も育て方次第ですべてが決まる。その失敗を犬種のせいにするのはまちがいでしかない。ところが、国によっては、特定の犬種を「危険」と決めつけ、その飼育を方で禁じているところまである。たしかにトラブルを起こし、それが悲惨な結果となりかねない、そんな屈強な身体と力をもつ犬種はいる。でも、それは育てたほうに問題があったのであって、犬種のせいではないのだ。

そんな犬種の代表的な存在が通称ピットブルのピット・ブルテリアや、ラベルだけちがうだけで中身はまんま同じと言ってもいいアメリカン・スタッフォードシャー・テリア、そしてロットワイラーと枚挙のいとまがない。どこかは忘れたが、ある欧州の国の自治体では、コリーが飼育禁止犬種に指定されている。コリーとは、あの名犬ラッシーのコリーだ。名犬を駄犬にしてトラブルを起こしたのは飼主であって、コリーではない。そして、それを飼育禁止にするなんてことをするのは日本と同様のコトナカレ主義によるものだ。

チューバッカとジミー.jpg

ジェイムズの親父さんは、出版社の編集者にして、大のスターウォーズ・オタクである。それが影響してか、このブルマスチフはチューバッカと名付けられた。チューイーは、いい迷惑だと言わんばかりの表情である。息子のジェイムズは、実はルークと名付けられそうになったが、奥方の強い拒否表明でその実現は流れた。でも娘にレイアというのはイイんだそうである。それはともかく、チューイーことチューバッカは、ワケのわからないジェイムスの言うことを理解し、完全に服従している。その様を見て、ボクは大きな愛を感じた。

ところで、人を見た目で判断してはイケナイというお言葉がある。英語では、Never judge a book by its cover、つまり本の中身を表紙で判断してはイケナイという。好きなロックバンドのエアロスミスの名曲、Dude is like a Lady(奴さんは、スケに見えるぜ)の歌詞にも登場する名言だ。それと同じで、見た目の印象でコワイ、だからキライ、イケナイという実にアホな了見でものを見る人たちはゴマンといる。そういう方々にとっては、ただ大きいとか、見た目の印象だけで「イヤッ」となり、それだけのことで誤解されている犬種も少なからずいる。

それが素人さんならまだしも、プロの口から似たような言葉が出てきたときには、サスガのボクもビックリし、同時に犬と暮らす民度についてを考えさせられた。それは、とある警察犬訓練所でもある、犬のトレーニングを生業とする方の経営するドッグカフェで、そこのオーナーと話をしているときに本人から聞いたことだ。なんと、秋田犬をして、あんな危険な犬種はいないから、そこでは訓練を受け付けないとハッキリと宣うた。そのひとことで足元が見えたな、と思った。穏やかな善人を装っているものの、その本質は無知であることを確信した。そして、それ以来、そこには絶対行かなくなった。ボクは「絶対」という言葉は極力使わないように心がけている、しかし、そこについては別だ。二度と行くもんかと思った。

リバーとベア.jpg

絞り染めのことを英語でタイ・ダイ(絞って染めると、そのまんまだ)という。この派手なタイダイをお召しになっているのは女の子で、その名をリバーという。これまた両親がヒッピーである。犬はボクがこれまで見たことのあるピットブルでは最大級の奴でベアという。ベアは、そのときどきにリードをもつ相手ときちんと歩調を合わせる。そしてリバーに対しても最大限のリスペクトをもって接する。ちなみに、ドラッグで亡くなった、少年時代、スタンドバイミーで一躍スターとなった俳優のリバー・フェニックスも両親がヒッピーだ。兄弟で俳優として成功し、兄を超えた弟のほうはホアキンという。正直、現役と元のヒッピーの友人がけっこういるボクだが、こと彼らのネーミングのセンスには、ときどきワケがわからなくなる。リバーについては、当初、発音をしくじってLで発音して怒られた。川であって、肝臓ではないのだ。

話を元に戻す。たしかに力の強い、ある意味アグレッシブな遊びを好む大型犬はいる。しかし、それは最初からわかっていることで、だからこそアグレッシブな遊び、たとえば綱引きのような引っ張り合いとかを教えなければいいのだ。さらにリーダーであると勘違いさせていなければ、縄張り意識でのトラブルも起こさなければ、群を守るための攻撃性も沈静化する。海外で出版されている、これはと思える「犬の飼い方」関連の本には、それらのことがちゃん出ている。きちんと書かれている。いったん制御不能となったら大変だから、飼うなら、それなりの決意が必要だよ、子供のいる家庭ならなおさらだよ、と明記されているのだ。

人は、まあ人によるが、ときとして自分を力強く見せるため、自己の内心の弱さを隠したり、見た目での畏怖心を強めたいがためという、実に不純な動機で制御不能になることすらありうるオドカシの強いルックスの犬種を飼う。そして、動機が不純なゆえに、きちんとした飼い方もせず、制御もできないまま、結果的に犬のするがままにさせておいて平然を装っていたりする。そういう犬種を放飼いにし、近隣がそれで怯えることで悦に入っている向きすらいる。そんな彼は、犬たちを不幸にしている。しかし、そんな自覚なんてものは、てんでない。そしてトラブルを起こし、結果的に社会的制裁を受けることになるかもしれないが、最悪、命を落とすハメになるのは犬のほうだ。これまで起きた大型犬によるトラブル、土佐犬やピットブル等の犬種によるそれらのすべては、その手のことばかりで、その責任は、飼主にあるのだ。

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コピーを直訳すれば「このガキ、実におもろいやんけ」とでもなるのだろう。このジャーマンシェパードは、レスキューされ、ユタ州にある、その世界では有名な施設であるベスト・フレンズ・アニマル・ソサエティでリハビリを受けた犬だ。リハビリ前の凶暴さまるだしの状態が、ここまでになったという、ひとつの好例としてよく知られていて、米国のジャーマン・シェパード・レスキュー協会自慢のミッシーである。女の子は、里親一家のペグことペギーちゃんだ。しかし、なんともまあ見事なシャッターチャンスをモノにしたものだ。以前掲載したブラッドハウンド版同様、Wait a minute(翻訳すると「ちょっと待てや」という英語での典型的な突っ込み用語である)とかの別バージョンもある。

ヒトの社会では、いまやボクの小中学校時代では考えられない事態が起きている。過日の昼間のこと、とある小学校の教室の見える坂道で信号待ちをしていたところ、授業中なのに教室内をウロチョロと歩き回り、授業に集中しようとしている同級生にちょっかいを出している生徒が一人ではなく、2〜3人いるという光景を目撃した。聞けば、中学でも同じようなことが起きているそうではないか。子供のためを思い、目を覚まさせるためにゲンコツを一発とか、ひっぱたいたくらいのことをしてはイケない。なぜなら、いまでは、それは体罰だとされ、違法行為として裁かれることになりかねないからだ。なんえも体罰だと騒ぎたて、結果的にコトナカレ的に法でそれを禁じた頃から事態は悪い方向に拍車がかかっているそうである。そしてそれが起きているのは圧倒的に公立校のほうが多い。私立であれば、校風に合わないからヨソへどうぞと追い出しやすいからだ。

過日も、中高生による素行不良どころではない騒ぎが近所の公園であり、警察が出動してけっこうな人数が補導された。まだ幼い表情ながら、せいぜいイキガっている連中が移動交番の中に連行されているところをボクは目撃した。その際、そこにいた警官が顔見知りだったので話しかけてみたところ、どいつもこいつも、いつもの札付きで、その半数が教師の子弟であると教えてくれた。面も素性も割れているのだ。警官いわく、そんな教師である父兄はまずまちがいなく、これがうちの子本来の姿ではないと言うのだそうだ。そして教師の子弟は、ワルになるのが半分、普通なのが半分というのが相場だそうだ。彼は、そんな実態を見てきているのだ。

このことから透けて見えるのは、学校というタテマエ社会を、そのまま家庭内に持ち込まれ、その息苦しい中で苦しむ補導されたワルたちの心情風景だ。学校であれば、中高一貫でも6年、夢を持ち続ければ叶うとかいう、ある意味、祝辞のような言葉をかけつづければ済む。中学、高校が別なら3年で生徒も先生もオサラバとなる。しかし、家庭内ではそうは行かない。なんとなれば、親との同居は、ある意味期限なしで逃げ場がないからだ。現実的には、なかなかそうはいかないタテマエを言い続ける親。その世間知らず的なタテマエ・ペアレントと現実の間の苦しみから逃れるためには、何らかの形で、それは往々にして親の望まない行動をしでかして、どうにかして発散するしかない。移動交番の中に引き連れられて行く彼らだけを責めることはできないのだ。親の顔がみたい、とはよく言ったものである。無論、例外もあることは承知している。

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ミリーとメアリーのファンスティール姉妹と二人の愛するブッチである。ブッチは正真正銘のピットブルで、姉妹に何をされても幸せそうである。ああ、それをやっちゃあマズイよ、てなことも、いいよいいよとばかりに幸せいっぱいの顔をして引き受けている。姉妹のほうも心得ていて、無茶はしない。ミリーとメアリーのお父さんは、ブッチを地元のレスキューシェルターから救い出し、なんと、あのシーザー・ミラン氏の協力を得てリハビリしたのだそうだ。協力と言っても、そこはプロなので、ギャラは発生する。いくらくらいするのか興味があったのだが、聞いても教えてくれなかった。ただ、それだけの価値はあったそうである。これを見れば、そうだろうなと思える。

犬たちも同様だ。彼らは、捨てられたりして悲惨な思いをしたり、命を落とすことにもなったりする。が、飼主の了見によっては、それ以上に不幸な状況に置かれ、そこから逃げることもままならない。逃げ場もない。好ましくない育てられ方をすれば、それなりの結果を招いたとしても当然のことだろう。そして、それは飼主の責任である。そんな犬たちにとって必要なのは、リハビリと新たな飼主だ。それが望まれても、叶わない社会を変えようという思いが、そろそろ声高に叫ばれてもいい時代に日本はあるのではないかとボクは思う。

今回、本稿に掲載した写真は、すべてとある国々や特定の自治体において「危険な犬種」としての指定を受け、その国や地域での飼育が禁止されていたり、里親が名乗り出なければ、殺処分は免れない人間不信な状態にあった犬たちばかりだ。ご覧のとおり、彼らはみな、自覚のある飼主の下で、きちんと責任と愛情をもって育てられ、リハビリに成功した犬たちばかりだ。彼らに共通しているのは、安心と幸福感である。ボクは、少なくともスミレにも犬として、ボクと奥さんとの暮らしの中で同じ思いをしてもらいたい、そうあってほしいと願っている。

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ジャーマン・シェパードのパギーは、もはやトレーニングによる厚生は不可能と判断された咬癖(コーヘキと読む。かむクセ)のある犬だった。それを見事にリハビリしたのは、写真のジョン君のお父上である。1年がかりだったというが、その努力の甲斐あって、ご覧の通りの状態にある。ヒトと犬の好ましき関係そのものではないか。ボクは、ジョン君にパギーのリハビリ中のビデオを見せてもらい、不覚にも涙してしまった。そこには、ヒトの愛情と規律を知った瞬間のパギーの姿が収められていたのである。そのとき、パギーの目に浮かんだ光というか輝きは、たぶん一生忘れないと思う。

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サルとイヌ。モノのたとえで犬猿の仲というライバル関係にあるが(ちがうか)、とはいえ、ことヒトと相対した場合のコミュニケーション能力については犬の「勝ち」である。勝ち負けの問題ではなかろうと言われるかもしれない。が、一人の犬好きとして、犬と暮らす愛犬家としては、ここはひとつ「勝ち」を宣言したい。

のっけから何であるが、霊長類と猿とは異なる。英語圏ではエイプとモンキーとをちゃんと分けている。映画の「猿の惑星」もPlanet of The ApesであってMonkeysではな いのだ。そんなこんなを知るうち、ビックリしたのが、ヒトは霊長類の一員でサル目と いうカテゴリーの一角に分類されているという事実だった。あんりゃまあ、である。比 較的原始的なのは「原猿類」といって、キツネザルとかが、これに属する。その次にくるのが「真猿類」で、まあ言ってみればスタンダードな猿てなもんである。細かいところはさておき、そんなサル界の中には「狭鼻猿類」というグループがあり、その中で枝 分かれしていく末端のほうに「ヒト上科」なんてのがあって、そこには英語発音でオラ ンガタン、日本名オランウータンがいる。

いつものことながらちょいと脱線するが、ボクの知人で、声楽家の芸能人でバラエ ティ番組なんかでよく見かける森公美子似の女性がいる。あまりに似ているので、街中 で勘違いされてサインを求められたこともあるくらいだ。そんな彼女は、2年ほど付き 合っていた米国人の彼氏が帰国する際にフラれた。それはそれでよくある話なのだが、 その彼女と、とある家電量販店のテレビ売場にいたところ、彼女が急にオヨヨと泣き 出したことがあった。その理由は、目前のテレビに映し出されていた衛星放送のオラン ウータンの映像にあった。その番組は海外で制作されたもので、オリジナルの英語のナ レーションと共に字幕が入っていた。そのナレーションで、彼女はオランウータンのこ とを英語ではオランガタンと、まるで踏切を通過する電車の音のような名で呼ばれてい ることを知った。

聞けば、帰国した元カレは、彼女をハグしてアタマをナデナデしては「マイ・ベイ ビー、オランガタン」と言っていたそうで、「アタシはオランウータンだったのね...」 と悲しい思い出がよみがえり、大泣きし出したのである。声量と言うのは体格に比例す るようで、彼女の泣き声は、次第にその音量を増し、店内にある無数のテレビに映るオランウータンの映像の中をこだまするがごとく響き渡った。そんな彼女をなぐさめつ つ、家電量販店の外に連れ出したところ、いつもはものすごい行列ができているドーナ ツ屋に5人しか並んでいない、キャッホーとばかりに、それまでの落ち込みはどこへや らと、彼女はそこへと急いだ。これじゃあオランガタンと呼ばれても仕方ないなとボク は思った。

それはさておき、オランガタンの次にくるのが「ヒト亜科」で、ここにはゴリラが いる。でもって、その次には「ヒト族」があって、そこにはチンパンジーがいる。で、 ヒトはというと、その次にくる「ヒト亜族」のカテゴリーにある。この「ヒト亜族」の ひとつ手前の「ヒト族」のチンパンジーとわれわれヒトとの間にある、生物学的に指摘 される決定的な「差」とはなにか。それは別な視点で言えば共通点とも言えるのだが、 DNAである。なんとチンパンジーのDNAはヒトと98.8%同じなのだそうだ。つまりが DNA上での「差」は、わずか1.2%ということなのだが、実は、それがとてつもなく大きいのである。

生物学は多岐に渡り、その中には「霊長類学」なんてのがあって、ヒトにもっとも近 い霊長類としてのオランウータンやチンパンジーを研究対象にしている。その分野の研 究では、日本のアイちゃんとその息子のアユムくんという有名なチンパンジーの親子が いる。NHKでも特集番組が製作され、放映されているのでご存知の方も多いと思う。アイちゃんとアユムくんの母子は、京都大霊長類研究所の行動神経研究部門思考言語分野 におけるエースだ。この親子によって、いろいろと貴重な研究成果が得られているの である。

さて、ようやくここで犬の話に入る。これまでは、本論の前置き、いわば口座噺のマ クラである。そんな霊長類研究で世界をリードしている雄のひとつにドイツのライプツ ィヒ大学がある。ライプツィヒには、世界最大の類人猿動物園があることも手伝い、そこでも京大と同じ同様な実験が行なわれ、チンパンジーが瞬間的な記憶力に長けていること等がわかっている。これはアイちゃんとアユムくんの映像でもたびたび放映されて いる。たとえば、モニターの画面上にランダムに1から12までの番号が表示される。そしてそれが消えると、次に同じ位置で示された正方形が登場する。

Chimp_Monitor.jpgのサムネール画像

それらを、その前に表示されていた番号順に触れていくと正方形は次々と消えてい き、消し終わるとモニタの下の方にある穴からご褒美のおやつが出てくる。チンパン ジーは、訓練していくと、こいつを百発百中に近い線でやってのける。まさに朝飯前で ある。ところが、ヒトの場合は、瞬間的な記憶力がそれほどのレベルにはないので、彼 らには負けてしまう。同様にして、チンパンジーを前に、三つあるカップの中のひとつ におやつを入れ、電光石火の早業でその位置を左右にパパパッと変えても、彼らはいと も簡単に、どのカップかを当て、中のおやつをせしめる。大学院の研究者がカップを必 死に動かしているのを興味なさげによそ見をしているようでいて、しかし必ず当てる。 これがヒトだとそうはいかない。そうはいかないからニューヨークの雑踏の中でのカー ド当てギャンブルでなけなしの小遣いを巻き上げられるのである。

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上の数字の位置にある正方形を、チンパンジーは、その数字の順に瞬時にしてタッチし、ご褒美の豆だかなんだかをせしめる。ごくたまにだが、ヘマをする。そうするとご褒美は出て来ない。するとギャーギャーわめいて怒る。その様は、コトが思い通りにいかないと怒る渋谷センター街にいるお里の知れたバカガキのごとし
である。

なんだか犬からだんだんと遠ざかっていくようだが、こっからだ。そういうことを 日々行なっているライプツィヒ大の霊長類学の研究室でのこと。同じ3つのカップを 使った実験で、今度は、目隠しの板を立て、どれに入れたかを見えないようにしておや つを隠し、それからどれに入れたのかを指差し、それをチンパンジーが選ぶかどうかを 見てみた。これまでの異なる実験結果から察せられた知能からしてみれば、最初は理解 しなくても、いずれは指差したカップを選ぶはずだと思われた。ところがどっこい、チ ンパンジーは、何度やっても指で差し示すことを理解せず、違うカップをひっくり返し てはブンむくれ、騒いだのである。

その実験を同大の事務職員が通りがかりに見ていた。そして、その様子にしばし見 入った後、「サルはバカだねえ、うちの犬なんか、指差せばわかるし、目でそっちのほ うを見て示しただけでもわかる」と宣うたのである。毎日顔を合わせ、なんとはなしに 愛情すら感じているチンパンジーをバカにされた。ましてやサル呼ばわりしやがって と、研究者と事務職のオバハンの間で一悶着が起きた。言ってみれば犬と猿の代理戦争 である。そこで研究者が、そのバカ犬を連れてきやがれ、オバハンが上等だと言ったかどうかはともかく、翌日、オバハンが愛犬を連れて来ることとなった。

結論を先に言うと、犬は霊長類学の研究者たちの予想に反し、見えないようについ立 てのこちら側で隠したおやつの入ったカップを、距離を離したところから指差しただけ で当て続けた。事務職のオバハンは、もうハナ高々である。それだけではない、オバハ ンの愛犬は、目で、そしてアゴで差し示すことも理解し、百発百中でおやつをいただい た。DNAが98.8%同じのチンパンジーが指差し、目やアゴで指し示すという初歩的なコ ミュニケーションで犬に完敗したのである。勝ち負けで言うのもなんだが、少なくとも 霊長類学の研究者たちはそう受け止めた。そして、冷静になると、一体なんでなんだ、ということとなった。

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このように目隠しの向こうでわからないように隠しても、指でさすなり、目で示すなりすれば、犬はその仕草や表情を読み取って、おやつの入っているカップをちゃんと理解する。鼻でつついてコレダと示すのである。テストを行なっているのは、心理学と哲学の研究者にして、現在は犬や霊長類を通してコミュニケーション能力を研究中のジュリアナ・カミンスキー女史である。次回のブログの映像にも登場する。

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この幼児での実験でも言葉は使われず、仕草や目で示すことしか行なわれない。でも幼児は、それをちゃんと理解する。つまりが犬は、これくらいの幼児と同じくらい「無言」のコミュニケーションがはかれるということである。考えてみればこれはスゴイことで、それにはちゃんとした理由がある。返してみれば、これくらいの幼児くらいに犬は理解するということなのだが、言葉の意味を解しているワケではないので、あしからず。そんなワケで、犬は、下の写真のようなヒトが3人いると、目が見え、表情が読み取れるヒトのところへ行くのだ。

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研究と考察の結果、これこそがドメスティケーションの歴史のなせるワザであるとい う結論に達した。犬は、その長いヒトとの共生の歴史の中で、ヒトに慣れていくと同時 に、その表情やしぐさを観察し、それを読み取り、理解するという能力を身につけてい ったのである。それに対しDNAは98.8%がヒト同じで知能も犬より高くとも、チンパン ジーは、ヒトとの共生の歴史がなく、それゆえにヒトの表情や仕草を読み取る術も備 わっていないのだ。したがって、指で差し示すことの意味をきちんと理解させないかぎ りは、それが何なのかがまったくわからないのである。でも面白いのは、チンパンジーの群の中に赤ん坊が登場すると、メスたちがとっかえひっかえやってきては、アバババブーと子チンパンをあやすのである。その表情の豊かさたるやヒト顔負けである。そこらへんは同じなのに、指で、目で指し示すことはワカラナイのだから、動物学は奥が深く面白いのだ。

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なにがなんだか、サッパリわからん、の図である。ボクのお婆ちゃんはチンパンジー、オランウータン系に似ていたので、なんだか婆ちゃんのように見えてくる。ごめんね婆ちゃん、他意はないんだよ。ちなみに、この写真は、最後までわからず、「これよ」と正解のカップを開けてみせられたところである。このあとの婆ちゃんの怒りようたるやすごかった。私事だが、このボクも、この手のギャンブルで貴重な旅費をニューヨークのタイムズスクェアで浪費したことがある。思えば、あれも婆ちゃんからもらった餞別だったな。あらためて、ごめんよ婆ちゃん。

われわれであれば、ナルホドね、そっかそっかで終わるところだ。ところが、コミュ ニケーションの発達、発展を研究している学者さんたちにとっては、そうはいかない。 それまでチンパンジーや、オツムの程度は彼らに近いかな、と思えるくらいのヒトの幼児たちで実験をしたりして研究していた面々にとっては、こりゃ迂闊だったということとなった。そして急遽、コミュニケーションの発達した類人猿以外の動物でも確認せねばということで、犬も比較する上での研究対象となったのである。その証拠といっては何だが、ライプツィヒ大の同研究所のウェブサイトのトップページには、幼児たちの顔を描いたクレヨンか水彩画のような絵と類人猿たちの写真のバナーがあったのだが、いまでは、そこに取ってつけたように犬の画像が加えられている。とってつけたという証拠に、それまでヒトコマだったチンパンジーが2コマ分になって犬の写真が追加されているのだ。犬好きとしては、これは犬の勝利の証も同然であると言いたい。

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以前は差別(というべきかどうかはさておき、そんなことは)なくチンパンジーの写真もほかのおサルさんたちと同じく1コマで表示されていた。そこに伏兵の犬が登場したため、チンパンジーに2コマを使うことでバランスよくすることとなった。ネコ好きには申し訳ないが、そこんところは、まあご理解いただきたい、というところだ。

前回でも触れたが、ドメスティケートされた銀ギツネたちは、ヒトに慣れ、カモフラージュでもあった毛色に変化が生じただけでなく、知能をも身につけていった。それもたかだが野生から数えて5〜6世代くらいからはじまり、いまでは犬のようにオモチャで遊び、飼い主と共に生き、悦びを共有するにまでなっている。犬の場合は、そんなもんじゃない。1万5千年がとこ前からの共生の歴史があるのだ。バカな話だが、サッカーのW杯をブラのカップサイズと勘違いしたマヌケな友人がいて、そいつはWというサイズを想像できないと言っていたのだが、それと同じで、銀ギツネと犬ではFカップとWカップくらいの差があるのだ。DNAの共通性ではチンパンジーに負けるが(勝ち負けの問題ではないけどね)、ことヒトとのコミュニケーション能力に関しては、エテ公(差別用語じゃないからね。公にはプリンスという意味もあるしで)には負けていないのだ。

ちょっと犬好きマインドが暴走してしまったきらいはあるが、まあ、そんなワケで、 いまや動物のコミュニケーション能力、ひいては知能の面での研究対象として犬の存在 が脚光を浴びることとなっている。とはいえ、犬が言葉を理解しているかと言うと、そ れはない。いつも耳にする言葉が出てくることに加え、そのときの飼い主を含むヒトの表情や目の動きやら何やらに反応しているだけである。だから犬に言葉で叱っても意味 はない。犬に語りかけるのは情緒的な意味では理解できる。ボクもする。しかし、犬は言葉の意味は解していない。それが「ウチの子はわかるんです」という方がいたら、そりゃよござんしたね、と言うしかない。

その言葉を発しないと怒れない、叱ることができないことと犬が理解しているというのを混同してはいけない。それは無知、無理解、もしくはコミュニケーション能力の問題である。犬たちは、ヒトの表情、そしてヒトのもつそのときどきの感情や声から、発せられる雰囲気というか場の「空気」を読み取る。それは、1万年以上もの長いヒトとの共生の中で培われてきた能力なのだ。このことは、スミレの行動でもわかる。ボクと奥さんが口論から激論状態となった際、スミレは、われわれがケンカをおっぱじめたと勘違いしたらしい。彼女は、どこからか鍋つかみのミトンを加えてきて「ヤメテケロ」という表情で二人の間に座り込み、クィンと鳴いたのである。

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仲違いをしていると勘違いし、かような行動を思いついた犬知恵には可愛さと感謝感激を禁じ得なかったが、そんなシオらしい姿は、ミトンを取り上げようとしたとたんに豹変した。スミレがネコ科の豹に変わったということだ。そうなると厄介この上ない。まあ最近は、落ち着いてこのようなことも滅多になくなった。それはそれでさみしい犬バカのボクである。

この天賦の才とも言えるコミュニケーション能力は、犬と暮らす上で欠かすことので きない躾、あるいはトレーニングをするうえで活かすことができる。言いかえれば、こ のことを知っているか否かでその成果は大きく異なってくる。それを系統的に調査研究 しているのが、いわゆる動物行動心理学という学問である。その中で犬の行動心理の第 一人者として知られるのが、関連の名著が多いイアン・ダンバー博士である。博士のこ とには以前にも触れたが、名著も多く、そのほとんどが邦訳されているので、それらは愛犬家必読の書であるといえる。(残念なことに、翻訳では博士のお茶目な面が台無しになっているのもあるけどね。)

また、中には学者ではないが、学者顔負けの知識と能力を身につけている人もいる。その代表的なのが、衛星放送やケーブルテレビで配信されているナショナル・ジオグラフィックTVで人気番組をもつシーザー・ミラン氏だ。系統だったノウハウを重んじる専 門家の中には、彼のやり方を受け入れられない人たちもいるようだが、彼のノウハウは 役に立っているし、実際に効果があり、多くの飼主と犬との関係を改善している。ボク の奥さんなどは、ミラン氏を見習ってうまくやっている最良の例といえる。ミラン氏の やり方をテレビやDVDで見ていた彼女は、いまやスミレに一目置かれるまでになってい るからだ。

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イアン・ダンバー博士(左)とシーザー・ミラン氏(右)のご両名だ。わが夫婦は、博士の著書の愛読者であり、ミラン氏の番組の大ファンである。博士は来日して講演したこともある。内容は実にシンプルこのうえないが、トレーニングの基本を語るDVDも発売されている。レッドハートと検索すれば、DVDを購入できるサイトを見つけられる。某ドライフードの発売元のサイトにそれはある。警察犬の訓練で有名な日本人トレーナーの2万円もするDVDと本質的な部分では変わらないから、博士の方がオトクだ。ミラン氏の番組のDVDも日本語版が発売されている。

さて次回は、犬の知性についてをお送りするつもりだ。犬にも知性があるのだ。そ れはドメスティケーションの歴史によるものもあれば、そうではない、ある種、特殊な 条件下で発露し、発展するものもあるようだ。

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本来、犬は群で生きる動物である。獣医学上は、雑食と定義されているとはいえ、もし人類になにかあって、たとえばヒトだけが助からないがイヌは平ちゃらという疫病が発生し、もし彼らが野に放たれたらどうなるか。彼らは群を作って残り物を漁り、そして狩りをして生き残りを図る。祖先であるオオカミの習性というか、本能的なものは、ヒトと暮らしている、あるいは飼われている犬たちのDNAにも代々引き継がれ、変わる所がない。そんな彼らは、ヒトとの共生の中で誰が、あるいはどちらがリーダー(=支配者)か、あるいはリーダーに付いて行く側(=被支配者)の二択を迫られ、それをスンナリと判断して受け入れる。

このリーダー、つまりが支配者になるか、リーダーに従う被支配者側になるか、のどちらがペットであるイヌにとって幸せかといえば、それはまちがいなく後者だ。リーダーとして、群の安全を守り、群を率いる責任感を付託されたと勘違いしたか、させられた犬は、その責務のために不幸な状況に追い込まれる。なんとなれば、その責任と重圧ゆえにリラックスすることがなかなかできなくなるからだ。具体的に言えば、常に周囲の犬やヒトを警戒し、防衛本能に支配された状態のまま緊張の持続を強いられるのだ。緊張させられっぱなし、てのはつらい。したがって、その犬のおかげで、家族は守られるどころか振り回され、ヒトもイヌも本来望んでいる暮らしとは、ほど遠い状況となってしまう。これは明らかに不幸な事態だ。


より具体的に言えば、リーダーとして頑張らねばと勘違いさせられている犬がその典型例である。その荷が重すぎるとと、ワンワンキャンキャンと吠えまくっている場合が多い。犬は群れを守ろうと必死なのだ。飼主が胸に抱く小さなチワワが、いつ終わることなくワンワンキャンキャン、グルルルと騒ぎっぱなしでいるのを見たことがあるとすれば、それだ。別に胸に抱いていなくとも、散歩中で地べたにいても、そのうるささは変わらない。これと同様に、行きたいところに飼い主などそっちのけで突き進む犬もいる。この場合、飼い主は、ただただ体重を後に傾け、それに抵抗しているだけだ。冒頭のイラストのような感じだ。いずれも同じタイプで飼主のほうが被支配者側にあるのである。群の防衛のために必死な行動をさせなくて済むのであれば、お互いどんなに楽か。


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NZのオークランド郊外で動物栄養学の先生たちと散歩中に出会った犬とその飼主。辛辣なセンセ方はこの飼い主のことを「アホ女」と言ってはばからない。理由を聞くと「アホだから、いくら教えてやっても被支配者側のままでいる」からだそうだ。撮影の許可を得てカメラを向けた瞬間だけ、飼い主は普通の姿勢にあった。しかし、この直後、見事なまでの犬の急発進に負け、思い切りつんのめって地面に叩き付けられた。センセたちは、ホレ見たことかと言ってベソをかく女性をボクに助けにいかせ、高見の見物を決め込んでいた。


しかし、往々にしてそんな不幸な勘違い犬の飼い主ほど、犬をそんな状態にしてること、そして自分たちがどういう立場に置かれていることがわかっていない。でもって周囲に愛犬のうるささに眉をひそめられたりすると、「◯◯ちゃん、ダメでちゅよ〜」とかなんとか言って叱ったつもりになっていたりする。だからダメなんだよ、ということはワカラナイ。そんなに吠えて、唸って、大変だなあ、もっと楽にリラックスさせてやりたいなあという発想もない。で、「この子は、ほかのワンちゃんとかダメでぇ」とかほざくのだ。


犬同士の相性はあれど、人も、ほかのイヌも寄せ付けない。そんな犬は、まず間違いなく自分をリーダー犬、つまり支配者であると勘違いしている。したくてやっているワケではない。飼い主とその家族が頼りないと見なされているから、仕方なく、とそうしているケースのほうがそうでない場合よりはるかに多い。とはいえ、実際に支配的な指向の強い犬もいる。でも、そうであっても、犬を支配者にしてはいけないのだ。


その勘違いを修正し、そうじゃないんだよ、と犬に教えるのは飼主の責任だ。群の防衛に必死なイヌの場合、危害を加える恐れのない幼児が近寄りすぎたために咬みついてしまったりと、何かしらの理由で人をケガさせてしまうことはあり得る。そうなると、イヌのほうも怪我をさせられる事態も起こりうる。そして、そういう犬の飼主は、往々にして犬からも、ヒトから見ても、頼りなく、都合の悪いことから目を背け、問題を先送りにするタイプの人が多い。それに慣れっこになって、ご自身に責任があることに気づかないし、気づこうとする気配もない向きある。それを内向的だからと片付けてはいけない。なにせ相手は生き物で愛する犬のことなのだから。


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これも同じ散歩コースで出会ったハスキーで、その態度たるや剣呑そのものである。いやそれ以上か。飼い主とわれわれの間に割り入っては、この態度である。で、飼い主が言ったひとことが「子犬の頃、二人の年老いた女性にステッキで何回もぶたれたことがある」と。センセ(まさに二人の年寄りだ)たちは怒り、あんたが頼りないから、この犬がアナタを守ろうとしているからよと、飼い主の了解を得てリードをとり、でかいハスキーを慣れた手つきでうまい具合にねじ伏せ、アゴとクビの境目あたりを抑えてフザケルナと一喝した。そしたらそれだけで、その犬はセンセに対しては服従の目線となった。飼い主はただ驚き、面目のなさを恥じるばかりであった。


なにかあると、まるで子供相手に話しかけて叱責する飼主もいるが、その効果は、まずない。犬は、その勢いなり、飼主の精神状態を感じ取ることはあるにせよ、何を言っているか、言葉なんてものはてんでわからない。ただ反応するだけだ。だから本質的な状況は変わり様がない。その犬の緊張、警戒状態は収まることは少なく、その犬と飼主の関係は、飼主の一方的な思い込みだけで終わる。こんなはずじゃなかったという思いを抱きながらも、わが子可愛さのごとく、愛犬の側に立って愛想をふりまいて問題の先送りをしているだけだ。言いかえれば、飼い主の願望への逃避で終わり、その願望を具体的にどう実現すべきかを考えることも先送りされ、忘れられてしまう。


一方の被差別者あるいは、非リーダーを自覚した犬は、気楽なものである。それは飼主にとっても同じで、散歩を含め、普段の生活もグンとラクなものとなる。なぜなら、犬は緊張を維持する必要がなくなり、思い切りリラックスできるからだ。重要な判断と決定は、飼主のほうがしてくれるのが当たり前。それに渋々であれ、従えばいいのだ。リーダーではないがゆえに、従うべき配下が思い通りにならないことで生じるイライラとも無縁で、精神的にもとてもラクな状態で過ごせる。これこそが犬のシアワセ、あるいはシアワセな犬の第一の条件なのだ。側面での並行歩行なんか、リーダーであるという思いが犬側にあるかぎり、そんなことをするつもりには犬のほうでなってくれるワケがない。グイグイと引っ張るのは当たり前で、言うことを聞かないのも、むべなるかな、なのだ。


世界中を見聞きしてきたことのある犬好きによると、日本ほど、そういう犬が多いという。愛犬を擬人化し、飼主自身の自己愛の投影先として犬を飼う。そしてまるでわが子のごとくヒト同様に扱い、イヌを勘違いさせてしまうのだ。そうされて当たり前と図に乗る。図に乗せているのは飼い主だ。食性も、行動心理も、身体の特徴もまるで違うのに、人間扱いし、それで問題がなさそうと安易に考える飼主は、実は問題大ありなのだ。愛犬をリラックスさせたいとナントカいう犬の按摩を学び、それだけで終わろうとしたら資格をとれと妙なことになるのも日本ならではのことだ。配下の飼い主に按摩をされれば親分は、さぞかし目を細めて気分がよくなるだろうが、主従の逆転なぞ起きようがない。


それが元で犬がトラブルを起こし、相手に治療を要する怪我をさせ、下手をすれば警察沙汰となるケースであっても、必ず聞こえるのが「うちの子にかぎって」、「いつもは大人しいのに」、「昔、こういうことがあって、だから...」という言い訳の3点セットだ。それならまだしも、犬と自分しかいない心理世界に逃げ込む向きもいる。公園によくいるオバハンは、ノーリードでの散歩が禁止されているのに、それを知っていても犬を放し、眉をひそめる人がいると、放した自分は棚に上げて犬を責める。そうする必要がないときは、犬と共に脳内のお花畑での世界を満喫している近所でも有名なオバはんだ。これをヒトに当てはめてみると、愚かさがゆえの悲惨な事件を起こす若いバカ者のどこに原因があったのかが察せられると言うモノだ。昔の人はよく言ったものだ。「親の顔が見てみたい」と。ここではさしずめ、「飼い主の顔を拝みたい」で、それは往々にして即かなう。リードの先を見れば、そこにあるからだ。


なんで「こんなはずじゃなかった」などと言えるのだろうか。思慮そして配慮ある飼主として、最低限のコントロールができるように常にきちんとしていたにもかかわらず、というのなら、まだしもだが、そんなことはまずない。犬のことをきちんと知ろうとせず、すべてを先送りにしてきたツケがきただけの話である。「いつもは大人しいのに」そうでなくなり、残念な状況をもたらしたのも、すべての問題は飼い主のほうにあると言っても過言ではない。「むかし、大きな犬に噛まれたことがあって、それ以来...」などといって、問題の本質を理解していない、しようとすらしない飼主もいる。こういった飼主ほど、自分たちの問題で何かあっても、自分たちのほうには非がないと警察に被害届を出したりするんだから、たまんないよ、おっかさん。


ボクが住む首都圏に近いベッドタウンでは、犬の数も多く、そういう問題を目の当たりにする機会も多くある。そして問題のある犬の起こすトラブルや騒ぎのほとんど全部が、飼主の無知によるものと言っても過言ではない。犬種の性格も調べず、ただ単に可愛い、珍しいとか、気に入ったで選び、きちんとした育て方ができない。それでいて、犬が過敏なことについては、先のお決まりの言い訳が用意されている。それは、飼主自身に都合の良いものばかりだ。そして、そういう飼主ほど、犬どころか人とのコミュニケーション能力にも問題がある。「ウチの子にかぎって...」というのと同じで、自分側に問題があるかもしれないという発想がない。なんとなれば、自分に非があっても、それを認識するセンスがないし、そんなこと思ってもみないからだ。そして可哀想に、そういう飼主に連れられている犬ほど、自分がリーダーであると自負させられているケースが多い。

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これは、いつもの散歩コースの折り返し点にしている公園にいたドーベルマンのミックス君で、初めて見た犬である。飼い主は心優しそうな、しかしコトナカレ主義的なよくいるタイプのオバさまだったのだが、その愛犬は、完全に群れの支配者として君臨し、オバさまに近づこうとする者は人であれ犬であれ、ご覧の通りの対応をしていた。この尋常ではない犬の顔が幸せな犬のそれに見えるだろうか。この犬のおかげで顰蹙を買ったオバさまの姿は、その後、誰も見ていない。そういう飼い主で、市内や近隣の市の公園ジプシーをとなっている人は少なくないそうだ。飼い主も犬も不幸だ。だから捨てたりするのかもしれないと思うと他人事ではない。


過日もこんなことがあった。ボク住む市には、ドッグランがある。そこにいつもコーギーを連れて来ている知人のオバサマがいた。オバサマもコーギーもとても穏やかな人柄、犬柄で知られている。すると、これまでそこで見たことのない、多分初めて来たであろうロン毛のダックスフントを連れた女性がランの中に入ってきて、入るや否や、おもむろにその犬を解放した。この時点で、その女性はルール違反、というかドッグランで最初にすべきことをまるで知らないことがわかる。そこが犬を自由にさせてストレスを発散させる場所であると思い込んでいるであろうこともわかる。


ドッグランでは、入ってすぐにリードを放してはならない。まずは、先に来ている犬たちの間を歩き回るか先にいる彼らに匂いを嗅がせる。そして彼らとその場所の雰囲気に慣れさせ、問題がないであろうことを確かめる。その時点で愛犬が落ち着いているのであれば、そこで様子を見つつ、放す。しかし、それまでほかの犬たちに対する攻撃性を示したり、協調性がないと判断されれば、リードをつけたまま、つまりが飼主のコントロール下にある状態で、ランの場内での時間を楽しむしかない。ところが、入るなり放されたロン毛ダックスは、猛然とコーギーにダッシュし、その臀部に思い切り咬みついた。コーギーは、驚きと痛さで泣き叫び、流血の事態となった。コーギーの飼主は、愛犬を救うべく、持ちあげたが、ロン毛ダックスは、その牙をコーギーの尻に食い込ませたまま、宙に浮いたままで首を振った。


その間、ロン毛のほうの飼主の女性はと言うと、高い小声でダックスの名前を呼びつつ、ダメでしょ、離れて、とお願いするだけである。犬を抱き上げるなりして、噛むのを止めさせることすらできないまま、ただ立ち尽くし、ヒィヒィと懇願するのみである。何とも頼りない。それを見て、ロン毛が彼女より上位にあり、つまりが犬のほうがリーダーと自覚していて、飼主は、完全に見下されているであろうことが察せられた。結局、コーギーの飼主が流血する愛犬を獣医に連れて行くべく急ぐ間、ロン毛ダックスの飼主は、犬を抱き上げ、駐車場へと逃げるように走り、そのままクルマでトンズラした。わかっているのは、「ヤメテェ〜◯◯ちゃんと」と言っていたことからわかった、そのロン毛ダックスの名前だけだ。


一緒に暮らす犬をリーダーあるいは支配者と勘違いさせたままでいる飼主は、こうまでペットが増えると、無責任の誹りから逃れることはできない。別な犬を可愛がり過ぎ、嫉妬でワンワンとされるのならともかく、常に限界近くで緊張を強いられ、群を守ろうとして、する必要のない苦労をし、リラックスさせてもらえない犬は不幸の極みである。そして、そんな犬を連れている飼主は大バカ者である。メディアのほうもしかりで、これだけ多く犬の飼育に関する本や雑誌があっても、犬の本質について、しっかりとした記事を載せ、それをきちんと読者に伝えようとしているものは実に少ない、というか、ないと言ってもいいくらいだ。


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海外製作の犬のトレーニング番組でよむ見るトレーニング用のフェイスストラップ。これがあれば、マズルをコントロールしつつ、首輪で大きな動きを制御することもできる。引かれれば、応じるしかないが、犬は実に気まぐれで考えるよりも反応をする動物なので、このようなツールで関心の矛先を変えさせることが有効なのだ。

しかし救いもある。衛星放送のスカパーや有線のケーブルでは、海外のドッグトレーニングものの番組が多数放映されて人気を博している。その理由は、犬という動物に関するごく基本的な、ファンダメンタルなことを簡単明瞭に解説し、それをもとにしたトレーニングの実際とその効果なり、結果をきちんと見せてくれているからだ。とはいえ、それら海外の事例には環境面でのアドバンテージもあることも指摘しておきたい。日本は過密状態にあることをつくづく思い知らされるのだ。

しかしそんな日本に目を移すと、国内の、たとえばBS放送で放映されていたりする国内製作のドッグトレーニング番組のなんともつまらないことか。味気ないことか。教える方も仏頂面で、まるで教えるのがヘタな学校の教師と変わらない。テレビなんだから考えてほしいよ、まったく。画面を見るかぎり、お洒落な感じのする絵作りがされている。だが、なんとも実質性に乏しい印象を受ける。なんとも夢がない。製作する側も、出演する側も、視聴者の目線や不安を感じて、それを番組に反映させようとする考えはないようである。見ていてつまらない、という印象がすべてを物語っている。

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これは、スカパーやケーブルTVで視聴できるナショナル・ジオグラフィックTVの人気番組にして、本ブログでも取り上げたことのあるシーザー・ミラン氏が考案し、彼のサイトで販売されているイリュージョン・カラーだ。リードを引くと、最初は首のもっとも敏感な部分に力がかかるが、それが全体に分散されるようになっているのがわかる。手首の軽いスナップで犬の関心をそらすのに最適なデザインである。デリカシーのない飼い主が力を入れすぎても、ちゃんとそれは全体に分散されるのだ。


海外のトレーニング/躾関連番組は、より実質的である。もっと生活に、飼主の悩みに応じての相談に乗り、問題の原因を理解し、解決してより幸福な犬との暮らしの実現を目指すパターンが多い。そしてその合間に、犬という動物の本質的な、変えようのない本能や、行動心理に触れ、飼主の挑戦を成功に導こうとする。それに対してBSの番組はひどかった。飼い主の存在なんかカンケーない。ただひたすらに犬に言うことを聞かせる紋切り型の内容に終始している。横につけさせる方法とその実際を見せて繰り返すだけで、日々の散歩や、ほかの犬と出くわしたとき、へそ曲がりで散歩になかなか応じようとしない犬への対処なんて取り上げることなど夢のまた夢のようだ。思うに、あの番組は、犬を知らない企画者とプロデューサーおよびディレクターによって製作されたものなのではないだろうか。いま日本のTVで犬のトレーニングに海外と同じ視点で取り組んでいるのは、日本テレビ系で放送されている「鉄腕ダッシュ」の年2回ほどある特番だけだ。


そういう番組のスポンサーとなると決まって大手のフードメーカーだったりもする。それは仕方がないにせよ、このままだと、日本のテレビは、チャンネル数は多くなっても、コンテンツに関して言えば、その未来は相当に暗いように思われる。視聴者の側に立っての番組制作が行なわれなくなったのは、いつ頃からなのだろうか。NHKも、全世代が同じお茶の間で見るから、というバカな言い訳を通せる時代でないことは重々承知なはずだ。でも、企画はいいのに、ワケのわからん全世代に向けての場を白けさせる演出でダメになっている番組がいかに多いことか。やはり、企画演出は優れた人間に、その世界がわかる人間に任すのが、おカネをとるNHKがまずはすべきことなのではないのか。身内ではなく視聴者のほうを向いていないから視聴料不払いなんてことも起きるのではないか。


とはいえ、別にテレビに期待する必要は、衛星放送以外、ぜんぜんない。それもダメというのなら、いまは手頃な価格のいい内容の教則DVDもある。ただし、国内製作の日本語版には良品はない。自腹で買ってみてそう断言する。愛犬をもっと精神的にラクな、被支配者のポジションについていることを確認するなり、勘違いを正すのに格好な、内容に優れた、見るだけでも楽しくタメになるものなんてない。それは海外製作されたものの独壇場だ。だから字幕入りのそっちの教則DVDを利用すればいい。それを買って見ればいいのだ。さして高くもないし、その投資をしただけの価値は十分にあるとボクは思う。国内製作の2万円近いものも見たことがあるが、ひたすらにショボく、カネ返せと言いたくなるような代物だった。字幕入りや音声吹き替え版の海外ものなら4、5千円で釣りがくる。


ただ可愛い、可愛いと擬人化しているだけで、犬は幸せだと勝手に思い込み、実は主導権をまったく握れていないことを自覚されられるときは、必ずや訪れる。そうならないように、その確認すべき点をきちんと確認し、必要な対処ができてこそ、賢明な飼主であるといえる。そしれ、そんな飼主の愛犬は、必ずや幸せな一生を送れるようになるはずだ。無論、飼い主もだ。


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シーザー・ミラン氏と彼の救った多くの犬で彼の元にいるピットブルのパンジー。彼によって救われるまで、強面で誰にでも咬みつく文字通り獰猛を絵に描いたような犬だったそうだ。そんなパンジーが彼によってレスキューされ、彼を上位に認識し、一気に人なつっこい穏やかになる様子がTVで見られる。しかもシーザーのすることは、威厳を示すだけで痛いことなし。犬という動物をわかりやすく解説し、説明通りのトレーニングをして、ちゃんと言った通りになるのだから人気番組になるワケである。メキシコ移民の苦労人だが、犬の扱いに長けていることがウィル・スミスをはじめとするハリウッドッスターたちの目に留まるところになり、今日に至る。ああ、彼みたいになりたい。

以前にも本欄でもご紹介したが、米国はカリフォルニア州、ロサンゼルスとサンフランシスコに高名なドッグトレーナーの方がいる。ロサンゼルスのほうは、シーザー・ミラン氏と言って日本の衛星放送スカパーやケーブルテレビでおなじみのナショナル・ジオグラフィックTVで愛犬のしつけ、お悩み相談番組が放映されていて、人気を博している。それ以前に、わずかな間、NHKのBSでも放映されていたのでご存知の向きも多いだろうと思う。本国では、いまや6年目のシーズン6に突入している人気番組である。

サンフランシスコのほうは、シリウス・ドッグ・トレーニング・センターの主宰者であり、犬とそのしつけに関する著書やDVD、そして各地での講演で知られるイアン・ダンバー氏だ(以下、両氏とも敬称略のファーストネームで表記させていただく)。イアンは、年に2回ほどある日テレの日曜日の人気番組、「鉄腕ダッシュ」の犬のお悩み相談と解決の特番に登場した銀髪のおじさんである。そう聞くと、ああ、と思われる方も少なからずいることだろう。イアンは、実に明快な診断と判断、そして指導で定評がある。そして、Youtubeなどの映像サイトでは、その講演が数多くアップロードされている。

以下は、イアン・ダンバー博士の犬のしつけトレーニングの基本編である。いわゆる甘噛みをやめさせるためのトレーニングで、おやつ、あるいはご褒美を使う手法だ。


出演しているパピーの名はナナ。イアンによると、おやつを握った手を前にすると、ナナは中のおやつがほしいので、手を噛む。強くは噛まない、軽く、いわゆる甘噛みをしつこくする。その際、博士は、ナナが噛んでどうにかしようとしている最中は徹底的に無視を決め込む。しかし、ナナが少しでもあきらめるか、中断してマズルを手から離したところで"Take it"、意訳すれば「どうぞ」(あるいは「よし」)という声をかけて、手の中のおやつをあげる。これを繰り返すことで、犬は、噛まないで待てばもらえることを憶えるのである。

シーザー、イアンの両名は、犬のしつけは、いつでも遅すぎることはないし、早すぎることもない、と断言している。両名には、明確な違いがあって、それはシーザーの場合は、リーダーとしての威厳をもって犬と接し、犬を擬人化せず、人間ではなく犬として、きちんと扱うことをはっきりと言う。それに対し、イアンのほうは、それは当たり前のこととして、何はともあれ、問題の解決を通じて、そのことをヤンワリと飼い主に伝えていく。

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左は、講演会場でレクチャー中のイアン・ダンバー氏。Dr.だから博士だ。犬種による偏見をなくし、犬と飼主、あるいはヒトとのよりよい関係を気づくために世界中をまわっている。来日もし、現在では、博士のプロデュースによる飼主と犬のための滞在もできるトレーニングとリラックスのためのWOOF(ワフ)という施設が、山中湖にある。ワフのURLは以下に記しておいた。右は、ボクがはじめて買ったサウンドブックCD、つまりが朗読CDだ。どうやら人気ラジオ番組がCD化されたものらしい。これを聞いて、ボクはものすごく励まされ、また納得させられた。スミレは具合が悪い時期があったぶん甘やかしすぎて、チョイとヤンチャ過ぎる面があった。が、こCDを聞いて勇気百倍、ボクは、スミレとより正しい関係を結ぶことができた。そして、いまではそれに加えてシーザー・ミランのノウハウが活かせている。

http://www.dogresortwoof.jp/


結果的には同じことだが、両者の指導方針は異なる。シーザーは、彼の示す判断なり診断がまちがいないことを飼い主の前で明確に証明してみせる。それが説得力となり、飼い主の愛犬に対する問題の認識と、それに正しく対応するための決心を促す。イアンの場合は、診断と対応の指示をし、その後の進展ぶりを飼い主自身に実感させていく。

いずれも目標は同じで、手段もほとんど変わらない。要は、二人共、犬の習性や群れの中での社会性を熟知していて、何が欠けていて、何が必要かを瞬時に判断できるという共通した知識と能力がある。あえて色分けというかスタンスの違いをいえば、シーザーは、ハードで、イアンはソフトである。でも、二人共、犬に対して痛みを伴うようなことは一切しない。することは、飼い主が犬より上であるというヒエラルキーをきちんと、しっかりと伝え

ることで、そこで暴力的なことは一切行なわれない。

とはいえ、日本にかぎらず犬を擬人化したり、犬の習性をきちんと把握せず、ただ愛情をふりそそぎ、仲良くしようとするタイプの飼い主にとっては、少々受け入れ難い部分もあるかもしれない。とくにシーザーのほうが、そうで、彼は、彼自身に備わったというか、神に与えられたともいうべき自信に裏付けられた能力によって、とも見えるやり方で、猛り狂う犬を落ち着かせ、飼い主によって長く勘違いさせてきたことで言うことを聞かない場合は、その首を地面に押さえつけ、犬の自由にはならないということを知らしめる。

実際、それは暴力的なことでもなんでもない。ところが、それができない人がいる。そうなると、その飼主は、愛犬としっかりと向き合ったことのない、あえて言えば勇気がなく、ただ溺愛する、放任しているという、無責任ということでしかない。真の愛犬家なら、多少噛まれようがなにしようが、それに挑戦してみるくらいの気概があって当然なのだが、実際、愛犬が制御不能になると、お手上げ状態になってすぐにあきらめてしまう向きが多い。

それこそが、しつけの必要な犬たちの抱える根本的な問題でもあるのだ。わかりやすく言えば、勝手流は通用しないということだ。犬に必要なもののプライオリティをはき違えていて、トレーニングになっていない。愛情を降り注ぐと言えば耳ざわりがいいかもしれないが、要は甘やかしてしまうことばかりしていると、犬から見れば、逆に頼りにならないヒトと認識されてしまうこととなる。そうなると飼主も犬も不幸だ。なんとなれば、犬は飼主のことをリーダーとして信頼することなく、飼主は、その逆鱗に触れて残念な結果になることが往々にして起こるからだ。犬もヒトと同じ生き物であり、自己主張もする動物で感情もあることを、あらためて知るべきだと思わされる飼主がいかに多いことか。

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上の3冊は、イアン・ダンバー博士の著書の翻訳版である。TV番組の「劇的ビフォー&アフター」ではないが、これから犬との暮らしを考えている方々は、たとえ経験者であっても、知識と認識のブラッシュアップになる名著だと思う。左の「ドッグトレーニング・バイブル」だが、もうちょっとどうにかならなかったのかと思うくらい大仰な邦題だ。原題を意訳すれば、「あの昔ながらの芸を新しい(家族の)犬に教える方法」となる。それが転じてトレーニング・バイブルとは、ちと仰々しすぎる。ダンバー博士の親しみ安さが薄れてしまい、権威が前面に押し出されるようで、ちょっと複雑な気分である。逆に見れば、それだけ日本にはペット向けの優れたトレーニングの書がないということでもある。ダンバー博士とシーザーに共通することは、自信に満ちていて、また親しみやすく、とっつき安いところにある。それに引き換え、日本のトレーニング番組やDVDのなんとまあ、楽しくも見応えのないことか。楽しく教えることをトレーナーも番組の演出サイドもきちんと考えてほしいと思う。その現状を考えれば、たしかにダンバー博士の本はバイブルと言っても過言ではないかもしれない。

シーザーもイアンも言う、「犬は群れで行動する、社会性のある生き物である」と。しつけが必要な状態というのは、その社会性が欠けていることにほかならない。散歩のとき、犬に引っ張られているばかりの飼い主、散歩中にほかの犬に出会うたび、いつも吠えかかり、それを止めない犬の飼い主。彼らに共通していることは、犬が飼い主を支配していること。逆に言えば、飼い主は頼れないので、犬が自分で、群れのリーダーとしての役割をはたさなくてはならない、つまりがこれはアタシがきちんち支配せざるを得ないなと、勘違いしているか、させられている状態なのだ。

群れで行動するということは、子供を育てたり、獲物の狩りをするときは、役割分担し、そ

れぞれがリーダーの支配下にあって、はじめて群れが機能し、行きていくことができるという生態のことを意味している。これはヒトに飼われている犬も同じで、きちんとした規律が必要なのだ。そして生物としての犬の場合、どんな種であろうと、運動が必要だ。動いてナンボの動物なので、ゆっくりとした散歩であれ、運動が必要不可欠なのである。

シーザーとイアンもこの点でいうことが共通している。1に運動、2に規律、そして3に愛情である。ハナっから擬人化して、愛情を降り注いでばかりでは、マトモな犬になる可能性は、どんどんと低くなる。運がよければ、飼い主の毅然とした態度で、犬は自分の立場をわきまえて、そのように行動する。でも、いったん、これは心もとないと思われてしまうと、社会性のない怪物にもなりうるのだ。

驚くべきことに、シーザーとイアンの二人が犬の散歩をしているとき、彼らの連れている犬、あるいは犬たちは、匂いを嗅ぎ回ったり、マーキングをしたりということをしないのだ。これは、ボクみたいな凡人にとっては、エエッというくらいの驚きである。そんな犬たちは、二人からリラックスして好きにしなさい、という態度を示されると、ごく普通の散歩中の犬たちのごとくふるまう。匂いを嗅ぎまわり、マーキングもする。これは自然界にあって群れで行動する際の規範としてはあり得ないことなのだ。なんとなれば、いざというとき、匂いを嗅ぎ、マーキングし、喧嘩をふっかけていては、狩りはできない、すなわち食べ物にありつけないからだ。だから、犬を散歩させる場合、それはリーダーと共に行動しているという気、あるいはモードにさせる必要がある。それをして良いと許す場所等は、リーダーである飼主が容認している場合のみ、というのが望ましいのだ。

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上は、国内で発売されているシーザー・ミランの人気番組、DOG WHISPERERだ。彼は、まるでささやくように犬に語りかけ、犬はそれに呼応するがごとく行動する。ささやき、すなわちウィスパーで、女性用品の商品名ではないからね。それがどうして「さすらいのドッグトレーナー」になるのか。愛犬のしつけのお悩みを抱える飼主から飼主へと訪ね、問題を解決していくからだろうが、それにしても、である。その昔、洋楽ポップスバンドのあるシングル曲を、アップテンポなほうを「恋の特効薬」、スローなほうを「恋の漢方薬」と題して売り出したレコード会社のネーミングみたいである。発売元はゼネオンとお読みすればいいのかな、そこである。お値段の価値は十分にあると思う。愛犬とのよりよい関係を築きたいと思われる飼主さんは、ぜひどうぞとオススメします。ボクの奥さんは、シーザーの番組を見ているうち散歩中のスミレを、しっかりとコントロールできるようになった。騙されたと思って購入した2万円もする日本のトレーニングDVDより、はるかにお値打ちモノだ。

写真にある本やDVDは、どれも金額以上の価値があるものとボクは思う。洋犬としか暮らしたことのないボクにとって、日本犬のスミレは想像していたのとは、まるで違うタイプの犬だった。けれど、犬の習性の基本を踏まえておけば、あとは根気だけで、それでも、どうしてこうなるのかと困ったとき、イアンとシーザーの本やDVDはとても参考になり、勇気づけられ、そして実際に役立った。 よく散歩で出会う剣呑な、つまりが取っ付きにくいことこのうえない態度の犬と出会うと、飼い主は決まってこういう。

「オスですか? オスにはてんで社交性がなくて」(メスの場合もある)

「うちのは、むかし犬に攻撃されたことがあって...」

「うちのは、家族以外には慣れないんですよ」

「この犬種は、気が荒いので」等々

イアン、シーザーの両名に言わせれば、どれも言い訳に過ぎないそうだ。まあ、去勢されていないオス同士の場合は、たまに問題がある場合もある。でも、そう決めつけているだけで、実際の問題は別なところにある場合もあるし、トレーニングによって解決することもえきる。なんとなれば、飼主はリーダーであり、犬はリーダーに習性があるからだ。きちんとしたトレーニングを根気よくしてダメなら、それはそれであきらめる必要もあるかもしれないが、大抵の場合は、飼主はリーサーとして認識されていないケースのほうが多い。

犬がどう育ち、どのような社会性を身につけるかは、育てられ方、あるいは、飼い主の対応がすべてなのだ。大したこともしていないのに可哀想と思うのは飼主に問題がある。そんな飼主はナメられてしまってオシマイである。犬による悲惨な事故は、犬猫先進国のニュージーランドだって発生している。発生件数だけで見れば、日本よりもはるかに多いくらいだ。でも、それらの原因は、すべて飼い主にあって犬にではないのだ。可哀想と思うのがなぜマチガイなのかといえば、犬には自尊心がないからだ。犬には感情はある。だが、反応するだけなのだ。厳しくされて自尊心を傷つけやしまいかと思うのは、飼主自身の弱い性格であって、犬のほうではないのだ。

最後にシーザーとイアンの主張で共通する言葉をもうひとつお送りしたい。

「犬が噛むのは、怯え、つまり恐怖かヒトと共生する社会性がないことに原因がある。そして、噛まれたとすれば、その兆しは、注意深く見ていれば、すでに読み取れるほどにあったはずだ。言い方を帰れば、見えていたはずだ。したがって友好的でない、さわられたくない風な気が伝わってきて、犬が唸りだしたりしたら、それは警告のサインなので、それ以上のことはせず、目も合わさないで立ち去るべきだ。不思議なことに、人間は、人間同士であれば、実に当たり前のことなのに、犬のこととなると甘く考える。それは飼い主も同じで、飼い主こそが、言うことを聞かない、扱いづらい犬に仕立て上げていることを認識していない場合が多い。そういう犬だと決めつけ、それ以上何もしない。でも、そんな状態を正すしつけをするのは、遅すぎることも、早すぎることもないんだ。」

シーザーは、TV番組の収録と各地でのセミナー、そしてイアンは、犬とのよりろい関係を築くための講演やセミナーに世界中を飛び回っている。以下は、英語版だが、シーザー・ミランの番組で、彼の主宰するトレーニング・クラスでのシーンだ。

トレーニングは、犬の落ち着きのなさ、攻撃性、過剰な防衛反応への対応だ。その原因は、いろいろあって、中には遊びたいのに遊び方を知らないというのもいるのだ。

下は、シーザー・ミラン氏の著書で、右がオリジナルのCesar's Way(直訳すれば「シーザーのやり方」あるいは、「方法」みたいな原題)というタイトルの原書で、左は「アナタの犬は幸せですか」という邦題となった翻訳版である(講談社刊)。これもまた名著で一読をオススメしたい。

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なんとまあ、シーザーは、日本人の、とくに婦女子の好むところではない、あるいは、世の男性の反感を買うのか、いずれにせよ裏表紙のほうをオモテにされてしまったようだ。共著のメリッサ・ジョー・ペルティエは、米国の名女性編集者だ。まあ、とにかくよんでごらんなさいと言いたいくらいのオススメ本。とくに犬好きのヒトのはぜひ。これから犬との暮らしを考えている方にもぜひ。米国でベストセラーにもなったほどの良書だと思う。

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前回は、日本の「食」に悩むミニチュア・シュナウザーの問題解決編だったが、今回は、再びNZに戻って、現地の犬事情についてをお送りしたい。以前にも書いたかどうか確かではないが、世界の各国、とりわけ先進国と呼ばれている国々には、SPCAというNPOがある。NPOとは、法的に「特定非営利活動法人」というもので、平たく言えば、特定の目的をもちつつも、それによる利益を追求しない団体のことを指す。資金は寄付等によってまかなうが、それを利益として追求することのない、特定の目的をもった団体、という意味である。

SPCAとは、英語でSociety of People against Cruelty for Animals、直訳すれば動物への虐待に反対する人々の団体、転じて動物愛護団体を意味する。対象は動物全般だが、力を入れているのは、絶滅種とヒトに身近なイヌネコである。SPCAインターナショナルと銘打たれたその本部は、米国のワシントンD.C.にある。そして他国のSPCAは、それぞれ独立した形をとりながらも本部と連携している、言わば支部的な存在であ。それはNZにもあって、その本部は同国最大の都市であるオークランドにある。その名称はSPCA Aucklandといって、同国内には、その支部であるシェルターを含む事務所が20カ所以上ある。また季刊だが、立派な機関誌を発行している。有名なところではPeTAというのもあるが、こっちは暴力も辞さずの過激派で、毛皮を着ている人にペンキをかけたりといった行動で知られる。米FBIにテロリストと認定されている某団体の資金源とも目されている。その点、SPCAは穏健派で保護活動も実践派ある。PeTAは、シェルター等の運営は一切していない。

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上は、その季刊の機関誌であるanimals' voiceで、summer 2009-10とある。そう、彼の地は南半球の国だから、季節が逆となり、年を越しての夏になるのだ。SPCA Aucklandはは、NZ国内に10カ所以上のシェルター施設をもち、ブッチ本社では、ブッチの愛用者と共にフードの無料支給支援活動をしている。

NZは、国旗の中にユニオンジャックがあることでもわかるとおり、英国連邦の一員である。英国連邦といえばペット先進国であるという印象が強い。実際のところ、英国には穏健派から過激派まで、SPCA以外にもペットの愛護団体のNPOがいくつもあるくらいだ。とはいえ、残念ながら、そんなペット先進国でも主役は業の深い人間であるゆえ、どんなにSPCAが頑張ろうと、動物に対する虐待行為は常に存在する。犬猫が捨てられ、ろくに食べ物を与えられないということが彼の地でも起きているのだ。そこは日本となんら変わるところはない。されど、彼の地の社会では、ペットとはいえ「命あるもの」であるとの認識がしっかりと根付いている。対する日本ではどうか。生命ではなく器物扱いされているのが現状である。

英連邦の中心である英国では、犬猫は、基本的にブリーダーから譲り受けなければならない、という決まりがある。だからペットショップに行っても子犬や子猫はいない。高層住宅の場合、正確なところは忘れたが、たしか5階か6階以上のフロアに居住する者は飼ってはならないという法律すらある。NZは、そこいらが英国とは、少々異なるので、ペットショップでも子犬や子猫が買える。しかも、ショーでの実績をとやかく言わなければ、その命のお値段は、日本に比べてはるかにお手頃だ。

そんなNZでは、よほどのところでないかぎり、公園等で犬にリード(正しい英語名はリーシュ)が付けられているところを見たことがない。なんとなれば、そのような規制がないからだ。リードが不要であるのは、それなりのしつけなりトレーニングがされていることが前提、という考えが当たり前のことなのだ。それは、人に迷惑をかけない、かける恐れがきわめて低い、ということでもある。さらに犬連れでない人も、犬の扱いになれている。とはいえ、場所によってはリードの着用は必要で、そういっった場所には、きちんとそうする旨の看板が立てられている。

でも、そこはそれ、犬社会のこととなると、それはそれで、ときたまいさかい等の問題は生じる。でも、だからといって、日本の飼い主のような過剰反応はしない。よほどの事態でないかぎり、噛まれて怪我したといって警察を呼ぶなんてことは、まず起きない。言いかえれば、犬猫とのペットライフに関してNZは、日本よりもはるかに成熟している国なのである。下の剣呑な状態も飼い主の一喝で、渋々ながらも収まっていたし、収まらない場合は、飼主が引き離し、ついでにとそれを機会に躾もしていた。

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動物の生命をきちんと命として認識し、愛護する対象とするNZにおける社会認識は、SPCAオークランドの設立された年を知るだけでもわかる。なんと19世紀の末なのだ。海外の、その世界においては、いまやブランド化しているといっても過言ではないSPCAだが、日本はその有無だけを見ても1世紀以上の違いがある。ブランドとは、また大げさなと思われるかもしれない。が、実際そうなのだからしょうがない。それにはちゃんとした理由があるのだ。

海外では、慈善を含む、国によって認定された特定目的でのチャリティ、寄付金については免税扱いにされる国々が少なくない。そういった国では、SPCAに対する寄付行為がその対象となっている。ゆえにSPCAへの寄付行為は、企業イメージを向上させるのにきわめて効果的であり、各国のSPCAは、大口の寄付をしてくれる企業を特定スポンサーとして、その名を公表している。そして、それらの中には、有名な日系企業の名がズラリと並んでいる。そこに自社のロゴがあることは、企業として名誉であり、尊敬されることなのだ。SPCAは、動物愛護団体における国際的ブランドとなっているというのは、そういうことゆえなのである。

ボクは、SPCA Aucklandの会長さんを含む面々と、当地を訪れていた米国のASPCAおよび全世界にある同組織の統括を担当するSPCA Internationalの方々をお会いし、夕食を共にしつついろいろと伺ったことがある。日本にはSPCAがない。しかし、あるべきだ。 いま、各地で独力で頑張っている各シェルターの支援のためにも必要だ。そのことを相談したところ、SPCA Internationalに認定されるSPCAを名乗る団体であるかぎり、それはNPOであるのは必須だと言われ、その理由を説かれた。実に明快な説明で、とてもよく理解でき、納得もできた。

ところが、最近になって、日本にSPCA日本を名乗る団体が登場した。しかし、同団体は、NPOでもなんでもなく、なんと社団法人である。つまりがSPCA Internationalからは認定されないのだ。問い合わせてみたところ、主宰者らしきオバサマが、「(設立に当たり)行政書士の先生が(社)のほうが設立しやすく、NPOは考えたことがなかったが、活動実績を積めばあとで(NPOに)なることもできると言われた」との実に眠たい回答が返ってきた。眠たいというのは、わかってない、という意味である。別な言い方をすれば、SPCAとしての運営ノウハウを海外のSPCAに相談をしたこともなく、したがって運営ノウハウも知らない、ということだ。しかしこのSPCA日本、企業への寄付要請活動は、熱心にやっているようだ。事務所の運営費や人件費といった固定費に寄付金が消えてしまわないことを願うばかりだ。

話をNZの犬たちに戻そう。ボクは、現地を訪れた際、時間を作っては緑の多い公園に足を運ぶ。また必ずシープドッグたちにお目にかかれる畜産農家にも立ち寄るようにしている。NZの公園は、ペットとペットオーナー以外にとっても天国である。木も多く、芝生もサッカーのピッチのようで、フッカフカの居心地満点である。犬たちは、そこで自由を満喫している。そんな公園の中では、剣呑な状態になっている犬たちもいれば、ご機嫌な仲良しグループもいる。芝生も、日比谷公園のように「芝生に入ってはいけません」みたいな野暮な立て札もない。あるのは、隣接する住宅地や幼児の遊び場、あるいは特定の公的施設のある区域によっては「リード着用」との表示があるだけだ。

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周囲は交通量の多い道路で近くには老人ホームと病院、そして大学がある。隣接した公園は、どれも犬を放すには、向いていない広さ。ということで、その一帯は、リードの使用が義務づけられている、これはそれを示すオークランド市の看板だ。

そんなペット先進国のNZで、意外なことも知った。それは、とある牧畜農家にお邪魔したときのことで、そこではペットと働く犬とのあいだに明確な線が引かれているのだった。そしてそれは、働くシープドッグとペットの犬の両方がいる農家では、どこも同じの当たり前で常識的なことでもあったのだった。それは何かと言えば、働き手のほうのシープドッグは、飼い主の住居の中には入れないのである。寝るのも、休むのも家の外なのだ。とはいえ、ちゃんと居心地のよい小屋なり納屋が用意されている。働く犬が家に入ることが許されるのは、引退後のことなのだ。

ところで、牧羊犬の仕事は楽ではない。追っかけ回し、グループにまとめて移動させてと言うのは簡単だが、あれだけ多いと向こう気の強い羊もいて、反撃もくらったりすることもあるのだ。さらに、まとめて進ませる方向は、牧場主の笛の音ひとつで瞬時に判断される。でもそれを嬉々としてやっている彼らを見ると、この犬種をペットにするなら、飼主にも、それなりの覚悟が求められるとボクは思った。働くDNAがあるのに、それをヌカれた運動の少ない生活を強いられるのは、けっしてその犬種にとっては幸せではないからだ。働く犬、NZにおいてその代表的な存在と言えるシープドッグたちは、誇りもある。引退して飼主の家で惰眠をむさぼれる状況になっても、仕事をしようとし、仕事がしたいと鳴いて訴えるそうだ。

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いっぽうのペットの犬は、住居の中に入れるし、家の中で寝る。彼の地では、それが当たり前のことなのだ。犬も犬で、そういう世界に生きているので、それが何かしらのトラブルの原因になることもない。ひとことで言えば、そういうものなのである。そんな世界を見ていると、いわゆる群れの中での順位という概念は、ペットとしての犬のいる家庭においても同様と考えられている日本の風潮に違和感を感じさせる。犬は群れで生きる動物であり、群れにリーダーがいることにまちがいはない。けれど、そこんはヒトの視点から見た常識とか感情論が入り込む余地はないのだ。日本では、なんでもおセンチ、あるいはセンチメンタリズムで片付けられてしまう傾向が強く、それが勘違いの原因になっているようである。

実際に、家族の誰かしらがペットの犬に「目下」となめられる、または軽んじられる存在となるケースがあることは考えられる。でも群れにおけるリーダーうんぬんのコンセプトは、それをそのまま家庭にも延長できるのかどうかについては、どうか。NZでの現状を見ると、これまで言われ続けてきた日本での考え方が受け入れにくいとも感じるのだ。

要は、家庭、あるいは犬との生活の中での規律のあり方である。そこにのっけから群れという概念だけを持ち出すのは、わかりやすいようで、その本質からズレることが生じる恐れがあるような気にもさせられるのだ。言いかえれば、それは犬を含めての家族の問題のあり方ではなかろうか。犬を含めた生活の場での規律のあり方、とでも言うべきか。犬や猫を飼う、というよりは犬と暮らす、猫と暮らすかという根本的な考え方の出発点にズレなり、違いがあるような気がするのだが、いかがだろうか。誤解を恐れずに言えば、犬との暮らしの中での順位を考えるとすれば、1に規律、2に運動、そして3に愛情がくるべきで、ペット先進国では、それが常識に近いレベルで認識されている。日本ではどうか、往々にして愛情がトップにあって、規律と運動がなおざりにされてはいまいか。と、オクは感じてしまうのだ。

公園では、犬と家族が楽しくも穏やかな時間を過ごし、畜産農家では、仕事においては欠かせない有能な従業員として牧羊犬たちが活躍している。牧羊犬に多いのはボーダーコリーだが、中にはシェトランドシープドッグもいる。そして珍しいところでは、モスコウ(日本での表記でいえばモスクワだ)シープドッグなんていう、ジャーマンシェパードの兄貴分みたいなのもいる。兄貴分といっても、言ってみればバスケをやっている長男坊で、ジャーマンのほうは文系の三男坊という感じである。それは一見すれば、すぐにわかる。

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この状態にならんで伏せした状態で待ってもらうには骨を折った。左のラブは、相当に大きなほうである。なのに、モスコウ・シープドッグは、かくもというくらい大きいのだ。遊んでいるうちに、ちょいとハメをはずされたときは、大変な思いをさせられたボクであった。

一般的なジャーマンシェパードを文系の三男坊というのは、モスコウのほうがはるかに大柄だからだ。ある農場にいたペットのラブラドールも相当に大きかったが、モスコウ・シープドッグは、それをはるかに凌駕するデカさなのだ。やはり、生物学的にいうところの「同種であれば、より寒いところのほうが大型化する」というのは本当のようだ。うちのスミレも寒い地方出身だからか、日本犬保存会の定める天然記念物としての柴のメスの標準を大きく超えている。言ってみれば、柴犬界の和田アキ子という感じだ。

そんなワケで、スミレは、柴犬としては手応えのあるサイズだが、ボクと奥さんの愛娘も同然の存在である。そんなスミレが、あれだけやせ細り、弱っていたのが、これほどまでに回復してくれたのもブッチのおかげだ。こうして、このブログが皆さんに読まれることとなっているのも、その苦労を乗り越え、また別な山々を越えてやってこれたからだ。そうして海にたどりつき、木製の手漕ぎの小舟で出航したばかりで、まだまだ時化や嵐も体験していくことになるのだろうが、いずれは船外機もつけ、船体もよりしっかりとしたものにして行きたいと思っている。

今回の最後に、NZで出会った犬の飼い主たちにフードのことを聞いてみたら、やはりブッチをはじめとする、チルドされたロールフードを利用している人のほうがドライの利用者よりもはるかに多かった。羊たちを追っている最中にそうそう水を飲める機会はない。となれば、食物に含有される水分量が重要になってくるのは道理である。ドライは、水分量があまりにみ少ないので、一時的に脱水症状に似た体調になるじゃないか、とそう一般の飼主さんに言われたときにはビックリした。でもって、それを補うだけの十分な両の水を飲んでくれるかと言うと、そうでもないというのも問題なのだ。

と、いろいろと書いたが、犬好きなら、NZへドッグウォッチングの旅に行ってみるのも一興ではないだろうか。日本とNZとでは、検疫上の優遇措置も多いので、愛犬を連れていくことも、そう難しいことではないはずだ。またそれは逆もあり、ということでもある。ところで、下の写真は、健康を回復し、すくすくと育ったスミレの2歳の誕生日のスペシャルディナーで、両面をさらりと焼いたNZビーフのステーキディナーをサーブしたときの写真だ。軽く焼いたのは、そのほうが風味がグンと上がるからだ。スミレは、ペロリンと下を出し、そしてそれをペロリとたいらげた。

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