
いささか私事で恐縮だが、テニスをしているとき以外では、常に穏やかだったいまは亡き父が、実家の近くでちょいとした騒ぎを起こしたというか、近隣のママさんたしから大顰蹙を買ったことがあった。それは、父が「小中学校は犬猫学校も同然」と言ったことで、その言に対して激昂したママさん連から前言撤回を求められたのだが、頑としてその要求をはねつけたことにあった。それは親のいうことをまるで聞かず、大人を小馬鹿にしている子供の親たちに向けられたものだった。言わんとするところは、社会生活を送る上での基本を身につけることが重要であるということだ。でも、怒るママさん連を前に、父は主旨を解さない彼女たちをせせら笑ったことで、それが火に油どころかダイナマイトを投げ入れるがごとくの騒ぎになったのだった。
その当時、実家の近所をマーケットに家庭教師で稼ぎまくっていたボクとしては、それはとても迷惑なことだった。ボクは英語専門の家庭教師で、基本的には格安、しかし通知表なりテストの点に改善が反映されれば成功報酬をいただくという方式でやっていて、ハシにも棒にもかからない中学生の英語力を文字通りメキメキと向上させ、売り手市場の立場にあった。ところが、父親の発言により、それで怒ったママさん連の中で、子供の成績より、自分たちの腹立たしさのほうにプライオリティを置く方々からクビを宣告されたのである。

ボクは、英語を教えることにおいては、ちょいとした自信があって、それは実際にも成績の向上という実績に反映されて、やり甲斐があった。教わっている側も、当初は態度劣悪なものの、興味をひく題材で引き込まれ、気づけばまわりを見返すことができていることに気づき、喜んでいた。家庭教師をしていたのは、渡米のための旅費かせぎではあったものの、子供達が生き生きとして英語力を身につけていくのを見るのは、気持ちのイイことだった。学校の先生では、てんでダメだったのが、これほどまでになったというくらいの子が何人もいたくらいだ。そんな子たちとの関係を、まったくスジちがいにことで横やりを入れられるどころか、それを理由にヒマを言い渡されるのは理不尽だと思った。
それは、教わっているデキの悪い彼女らの実子である中学生たちにとっても同様だった。バカな親のまちがった了見のおかげで、楽しみにしている英語を学ぶ機会を取り上げられたのだ。楽しみにしていたのは別な意味合いもあった。男子にはPlayboy誌、女子にはPlaygirl誌を、いずれも無修正の本国版も教材に使っていたからだ。そんな彼らは親にこれまで以上に反発し、それは成績という現実的な数字となって返ってきた。さらに、親に呆れた彼らは、素行の不良化の面でもいっそうの拍車がかかった。彼らは、親を親とも思わず、公然と反発したり、親の目の届かないところで、それぞれが思い思いの悪さをした。でもって、それらのことは内申書に響くことにもなった。でもボクは、彼らを見捨てず、ママさん連ではなく、子供達を通じて話のわかるパパさん連と密約を交わし、彼らに英語を教え続けた。
悲しいかなサイフは奥方に握られているがゆえ、約束の報酬を支払えないパパさんもいたのだが、そこいらは、子供達が、まあ、どうにかしてくれた。もう時効だもんね。彼らもいまや立派な大人だ。で、それが叶わなかった子たちも数人ほどいたのだが、彼らは、もう親のコントロール不能な状態となっていた。もともと、そのような状況にあったのが、よりいっそう悪化したのだ。親はナメられ、こんなアホかと足元を見られ、自暴自棄になった。それでも、ボクは、ギャラはもらっているというフリをしつつ、彼らに英語を教えた。とはいえ、彼らの心中の落胆ぶりや想像以上で、英語以外はまるでヤル気をなくした子もいたのだった。余談だが、その中の一人は、いまやなんと市議会議員だ。

ここで察しのイイ方々なら、わが父に言ったことは、あながちまちがいではないなと思われるはずだ。そう、ボクも思うのだが、義務教育としての中学校卒業までの教育期間とは、社会における基本中の基本である、常識を身につけることでしかない。それは、犬の群れにおけるそれとまったく同じであり、それを身につけられないことは、不幸以外のなにものでもないのだ。平たく言えば、他者との折り合いを付けられる自己を作り上げることだ。
これは換言すれば、犬にも当てはまる。犬も育て方次第ですべてが決まる。その失敗を犬種のせいにするのはまちがいでしかない。ところが、国によっては、特定の犬種を「危険」と決めつけ、その飼育を方で禁じているところまである。たしかにトラブルを起こし、それが悲惨な結果となりかねない、そんな屈強な身体と力をもつ犬種はいる。でも、それは育てたほうに問題があったのであって、犬種のせいではないのだ。
そんな犬種の代表的な存在が通称ピットブルのピット・ブルテリアや、ラベルだけちがうだけで中身はまんま同じと言ってもいいアメリカン・スタッフォードシャー・テリア、そしてロットワイラーと枚挙のいとまがない。どこかは忘れたが、ある欧州の国の自治体では、コリーが飼育禁止犬種に指定されている。コリーとは、あの名犬ラッシーのコリーだ。名犬を駄犬にしてトラブルを起こしたのは飼主であって、コリーではない。そして、それを飼育禁止にするなんてことをするのは日本と同様のコトナカレ主義によるものだ。

ところで、人を見た目で判断してはイケナイというお言葉がある。英語では、Never judge a book by its cover、つまり本の中身を表紙で判断してはイケナイという。好きなロックバンドのエアロスミスの名曲、Dude is like a Lady(奴さんは、スケに見えるぜ)の歌詞にも登場する名言だ。それと同じで、見た目の印象でコワイ、だからキライ、イケナイという実にアホな了見でものを見る人たちはゴマンといる。そういう方々にとっては、ただ大きいとか、見た目の印象だけで「イヤッ」となり、それだけのことで誤解されている犬種も少なからずいる。
それが素人さんならまだしも、プロの口から似たような言葉が出てきたときには、サスガのボクもビックリし、同時に犬と暮らす民度についてを考えさせられた。それは、とある警察犬訓練所でもある、犬のトレーニングを生業とする方の経営するドッグカフェで、そこのオーナーと話をしているときに本人から聞いたことだ。なんと、秋田犬をして、あんな危険な犬種はいないから、そこでは訓練を受け付けないとハッキリと宣うた。そのひとことで足元が見えたな、と思った。穏やかな善人を装っているものの、その本質は無知であることを確信した。そして、それ以来、そこには絶対行かなくなった。ボクは「絶対」という言葉は極力使わないように心がけている、しかし、そこについては別だ。二度と行くもんかと思った。

話を元に戻す。たしかに力の強い、ある意味アグレッシブな遊びを好む大型犬はいる。しかし、それは最初からわかっていることで、だからこそアグレッシブな遊び、たとえば綱引きのような引っ張り合いとかを教えなければいいのだ。さらにリーダーであると勘違いさせていなければ、縄張り意識でのトラブルも起こさなければ、群を守るための攻撃性も沈静化する。海外で出版されている、これはと思える「犬の飼い方」関連の本には、それらのことがちゃん出ている。きちんと書かれている。いったん制御不能となったら大変だから、飼うなら、それなりの決意が必要だよ、子供のいる家庭ならなおさらだよ、と明記されているのだ。
人は、まあ人によるが、ときとして自分を力強く見せるため、自己の内心の弱さを隠したり、見た目での畏怖心を強めたいがためという、実に不純な動機で制御不能になることすらありうるオドカシの強いルックスの犬種を飼う。そして、動機が不純なゆえに、きちんとした飼い方もせず、制御もできないまま、結果的に犬のするがままにさせておいて平然を装っていたりする。そういう犬種を放飼いにし、近隣がそれで怯えることで悦に入っている向きすらいる。そんな彼は、犬たちを不幸にしている。しかし、そんな自覚なんてものは、てんでない。そしてトラブルを起こし、結果的に社会的制裁を受けることになるかもしれないが、最悪、命を落とすハメになるのは犬のほうだ。これまで起きた大型犬によるトラブル、土佐犬やピットブル等の犬種によるそれらのすべては、その手のことばかりで、その責任は、飼主にあるのだ。

ヒトの社会では、いまやボクの小中学校時代では考えられない事態が起きている。過日の昼間のこと、とある小学校の教室の見える坂道で信号待ちをしていたところ、授業中なのに教室内をウロチョロと歩き回り、授業に集中しようとしている同級生にちょっかいを出している生徒が一人ではなく、2〜3人いるという光景を目撃した。聞けば、中学でも同じようなことが起きているそうではないか。子供のためを思い、目を覚まさせるためにゲンコツを一発とか、ひっぱたいたくらいのことをしてはイケない。なぜなら、いまでは、それは体罰だとされ、違法行為として裁かれることになりかねないからだ。なんえも体罰だと騒ぎたて、結果的にコトナカレ的に法でそれを禁じた頃から事態は悪い方向に拍車がかかっているそうである。そしてそれが起きているのは圧倒的に公立校のほうが多い。私立であれば、校風に合わないからヨソへどうぞと追い出しやすいからだ。
過日も、中高生による素行不良どころではない騒ぎが近所の公園であり、警察が出動してけっこうな人数が補導された。まだ幼い表情ながら、せいぜいイキガっている連中が移動交番の中に連行されているところをボクは目撃した。その際、そこにいた警官が顔見知りだったので話しかけてみたところ、どいつもこいつも、いつもの札付きで、その半数が教師の子弟であると教えてくれた。面も素性も割れているのだ。警官いわく、そんな教師である父兄はまずまちがいなく、これがうちの子本来の姿ではないと言うのだそうだ。そして教師の子弟は、ワルになるのが半分、普通なのが半分というのが相場だそうだ。彼は、そんな実態を見てきているのだ。
このことから透けて見えるのは、学校というタテマエ社会を、そのまま家庭内に持ち込まれ、その息苦しい中で苦しむ補導されたワルたちの心情風景だ。学校であれば、中高一貫でも6年、夢を持ち続ければ叶うとかいう、ある意味、祝辞のような言葉をかけつづければ済む。中学、高校が別なら3年で生徒も先生もオサラバとなる。しかし、家庭内ではそうは行かない。なんとなれば、親との同居は、ある意味期限なしで逃げ場がないからだ。現実的には、なかなかそうはいかないタテマエを言い続ける親。その世間知らず的なタテマエ・ペアレントと現実の間の苦しみから逃れるためには、何らかの形で、それは往々にして親の望まない行動をしでかして、どうにかして発散するしかない。移動交番の中に引き連れられて行く彼らだけを責めることはできないのだ。親の顔がみたい、とはよく言ったものである。無論、例外もあることは承知している。

犬たちも同様だ。彼らは、捨てられたりして悲惨な思いをしたり、命を落とすことにもなったりする。が、飼主の了見によっては、それ以上に不幸な状況に置かれ、そこから逃げることもままならない。逃げ場もない。好ましくない育てられ方をすれば、それなりの結果を招いたとしても当然のことだろう。そして、それは飼主の責任である。そんな犬たちにとって必要なのは、リハビリと新たな飼主だ。それが望まれても、叶わない社会を変えようという思いが、そろそろ声高に叫ばれてもいい時代に日本はあるのではないかとボクは思う。
今回、本稿に掲載した写真は、すべてとある国々や特定の自治体において「危険な犬種」としての指定を受け、その国や地域での飼育が禁止されていたり、里親が名乗り出なければ、殺処分は免れない人間不信な状態にあった犬たちばかりだ。ご覧のとおり、彼らはみな、自覚のある飼主の下で、きちんと責任と愛情をもって育てられ、リハビリに成功した犬たちばかりだ。彼らに共通しているのは、安心と幸福感である。ボクは、少なくともスミレにも犬として、ボクと奥さんとの暮らしの中で同じ思いをしてもらいたい、そうあってほしいと願っている。





























