「犬は雑食である」との定義らしきものがある。肉しか食さない「肉食獣」ではない、という意味では、その通りであるとボクは思う。だが、ヒトや豚ほどに雑食であるかと言えば、それはまちがっていると断言する。なんとなれば、消化器系の構成、ひらたく言えば腸の長さはまるでちがうし、消化酵素、必須栄養素等々が異なるからだ。
以前にも本ブログで取り上げたが、ドライ・ドッグフードというものがある。いまとなっては、もっともポピュラーな犬の食事というか、食品の中でもっともメジャーなものだ。でも、それは犬のために開発されたものではない。誰のためかといえば飼い主、しかも飼い主が文明生活をより簡便にするために生まれたものだ。
したがって、それが犬本来の食に代わるだけの健康的なものかとなると、そうではない。不健康とは言わないまでも、それなりの負担を犬に強いていることは明らかだ。しかし、多忙を極める現代生活の中にあっては、その存在を認めないわけにはいかないだろう。ただし、人間のために開発されたものであるとの認識の有無は、愛犬家ならもっているべきだ。そして、ドライフードとしての優劣をことさらに騒ぎ立て、精肉よりも高価にしていることは本末転倒であることを自覚すべきだ。どんなに良い原材料であっても、それがドライであれば、それだけで一定の限界は超えられないのだ。
犬は雑食と定義される理由は二つある、それは腸の長さが、祖先のオオカミやコヨーテといった他の野生の犬種、そして家ネコをはじめとするネコ科の動物、つまり肉食のそれよりも5割ほど長いからだ。肉食の場合、栄養の吸収に要する腸の長さは、動物の体長(肩から肛門のあるあたりの垂直線までの長さ)との比が4、つまり体長の4倍である。肉食動物を、おおまかに「腸の長さが体長の約4倍」とすれば、それ以上の長さの動物を雑食あるいは草食と定義することは、まあわかる。
ところが、動物では体長を用いておきながら、ヒトのそれは身長で換算するとコトを見誤る。ボクは、ある年配の獣医師が、実際に「ヒトと犬の腸の長さはあまり変わらないんだよ」と目の前に言い切られたことがある。れっきとした日本国の獣医師の免許をお持ちの方だ。でも、同様の比較をするならば、ヒトも四つん這いになった状態での、肩から尻までの長さを体長として計測すべきだ。そうするとヒトの腸の長さは約12倍となる。肉食獣の3倍だ。
で、前述の通り、犬の場合は肉食獣の5割増、つまりが1.5倍なので6となる。
これはヒトの半分である。そこで目を転じて草食の王様たる牛の場合はどうかというと、これがなんとまあ20倍なのである。草、つまりが葉類の消化には、かくも長い腸が必要なのだ。しかも、牛糞は乾燥させて燃料として使えることが知られている。つまりが、完全に消化されない草の繊維やらが大量に含まれているので、じんわりとだがよく燃えてくれるのである。
ここで閑話休題。草食動物の中でもユニークな存在がいて、それは冒頭の、そして下の表にもヒトの左にいる「馬」である。なんとオンマさんは、強力な胃液と消化酵素のおかげで腸の長さが体長の10倍しかないのだ。ヒトよりも短い。
そんでもってオスだけだが、前歯のちょいと奥の位置には犬歯まであるのだ。奥歯はまるでハーモニカの吹き口のごとくフラットな形状の臼歯がズラリと並んでいるので、ああ草食獣だなと思わせるが、犬歯があるたぁ、知らなかったよマンマ・ミーアだ。
話を戻すと、腸の長さという、実にわかりやすい事実だけでもヒトと犬の違いだけでなく、食の嗜好と指向までもがわかってしまうのである。これがヒト目線で犬や猫の「食」を考えるとコトを見誤るという理由だ。雑食だからといって、犬に対し、ヒトなみにモノを食べられる、与えてもいいと考えるのは大間違いなのだ。正確に言えば、イヌは「かぎりなく肉食に近い」雑食であり、そこいらを鑑みてゴハンを考えてあげないといけない。作り手が見た目や、盛りつけに凝るのは自己満足としてやればいいだけのことだが、こと内容についても見た目や思いつきだけで、しかもイヌ目線ではないそれでやられては、本当の愛犬家かどうかが疑わしくなってくる。
こうなると、被災地に何にも考えず、被災者の迷惑をかけることのない能力や装備の有無など考えずにボランティアとして駆けつける方々と同じだ。そういう向きは、行って見たら想像していた以上に大変で、行けば行ったで、喉が渇いた水はないか、腹が減った食べ物はないのか、風呂に入りたい、寝る場所がないと被災者に多大なる迷惑をかける。
そんな人がいるのかと思われるかもしれないが、ゴマンといるのだ。自覚なき罪人とでもいおうか、そういう人たちは、被災者の我慢の尾が切れて怒ると、堂々とこう言い張る。「善意でやってきたんです。」中には多少ながらも殊勝に情けない顔でそう言って泣きつくタイプもいるにはいる。でも、多くは開き直りと言うか、善意で来たのに怒られるとは「遺憾だ」と表するのだ。そして偽善者呼ばわりされると瞬時に激昂する。激高とも書くが、そうなるのは真の偽善者だからだと海外では思われる。そうですねえ、とか言ってヘラヘラするなり、失礼で可哀想な人だなあ、てな顔をしていればいいのだ。
愛犬や愛猫にきちんとした知識なしに自己流手づくりごはんを与えている人の中にもこのタイプの方々がいる。彼らは決まってこういう。「だって、お野菜をトントンとまな板で切っていると、もう待てないとヨダレを流して(ゴハンを)待っているのよ」と。それはゴハンを、散歩とゴハンが生き甲斐の彼らが、そのひとつの食事が待ち遠しいだけで、別に野菜が好きでそのような態度でいるワケではないのだ。
そういう話をすると、とたんに気を悪くする自称、愛犬家がいるが、それは単に意見交換や議論をしたこともなく、それらのことを論争と受け止め、また批判されることへの免疫がないだけだ。要は、自分が全否定されると勘違いするらしい。不幸なことである。愛犬についての正しい知識を得ることもなく、根拠のない自己正当化で結果的に愛犬のためにならないことをしてしまう。可哀想なのは犬のほうで、シニア期を迎えたらドースルのかと思う。まあ、どうにもならないし、犬にも罪はない。そして、犬は、そんな飼主のことを無条件で愛し続けてくれるのである。
ボクが言いたいのは、正しい知識を身につけようと言うことだけだ。よく考えよう、何度も考え直してみよう、想像力を発揮しよう、そしてわからないことや不確かなことは聞くなり、調べるなりしよう、ということである。同じ愛犬家なのだ。互助会である。
ところが、世の中は世知辛いもので、愛犬にとってよりよきことをしようと思う飼い主の無垢なココロを逆手にとってビジネスにしようとする人たちもいる。ネットには、そういった資格ビジネス、中でもそれを取得したといって何ができるのかはっきりしない上、国なり自治体の認可なりのバックアップすらないのに、インストラクターやらの資格を売る不可思議な団体がいる。こうなるともう日舞の通信教育とそれによるお名取りコースみたいなものとしか思えない。そして、ここでも「善意」という言葉が登場するのだ。また、必ずそれに荷担している獣医師の姿もちらほらとする。もう「ケッ」である。















